今をかきならせ
家族と写真の話になった。
今や重たいカメラで撮影し、現像を心待ちにすることがなくなったが、楽しいイベントが失われていくのは寂しい。と、言うようなことを親が言っていた。
私は、スマホで撮った写真なんかは見返さないから、執着が沸かないしデータがまるごと消えてしまっても悲しくない。なんて、話をした。
親は、それはあなたがまだ若いからで、年を取れば未来が無くなって、とても悲しくなる。と言った。
なんだか知らないけど無性に気分が悪くなって、腹立たしいような、哀しいような気持ちになった。
携帯のデータは消えてしまう、いやいや物質として存在しているものは総て消えるだろう。
確かにあるのは目に見えない思い出や、人との繋がりだけだ。
そうだろうか?脳に、肉体になにかが起これば悲しみも喜びも、過去の記憶全てが消え得るだろう。
悲しいから喜びを見つけようとするし、辛いから夢を見る。
もはや、私はコレじゃあダメだという自分を奮い立たせる気持ちすらなくなって、あの辛かった日々より死に近いんじゃないか。
死ねないだけで辛うじて生きてる。
なんて一人、頭のなかで色々な思いがグルグル渦巻いた。
しんどい。
音楽でも聞こう。
スマホのプレイリストから適当に選ぼう。
EMI胎動期、これにしようかな。
部屋に小さく、軽快に音楽が流れ始めた。
本当に適当に選んだのかな
無意識の自分が今はコレ、と言って流したのかも知れない。
「おまへをまってる おまへをよんでる」
あるだけ全部で行きたいもんだ。
エレカシとの出会い
私がエレカシを初めて聞いたのは九年前の2008年。
当時私は18歳で、二つ年上の恋人がエレカシ好きだった。
恋人は音楽が好きで、家にはCDやキーボードが置いてあった。
たぶんその家から適当に借りて、適当に聞いていたんだと思う。
何を初めて聞いたのかは覚えてないけれど、好きだから流して!と車でよく言っていたのは「ハロー人生!!」とか「今はここが真ん中さ!」だったと記憶している。
「冬の朝」は大学からほど近い彼氏の家からの通学時によく聞いていた。
と、なると初めて聞いたのはアルバム「startingover」か「自選作品集EMI胎動期」あたりなんだろうか。
ともかく、それから彼氏はエレカシの新譜が出れば買っていたし、DVDなんかも二人ソファーに並んで見ていたわけだ。
朝起きたら彼氏が「エレカシ活動休止だって!!」と騒いでいたり、「TEKUMAKUMAYAKON」のミュージックビデオを見て笑ったり、まあそういう日常があった。
私たちは結婚式で「笑顔の未来へ」を馴れ初めビデオに使った。ありがちな話だよね。
初めて二人で行ったエレカシのライブは、25周年記念のさいたまスーパーアリーナで、その前から狙っていた野音のライブはチケットが取れなくて、音漏れを聞きに行ったこともあった。
そんなこんな結構楽しい生活を送っていたはずなのに、私はまた生まれたときと同じ苗字に戻った。
人付き合いって儚いな。なんて最近はよく思う。
惰性でつながったままのSNSに、私のことを好きだ嫌いだと言った人たちが今の恋人との旅行日記を綴っていたりするわけだ。
まあそんなもんだろうと思うし、人のこととやかく言えた義理ではないし。ね。
そんなことを漫然と考えながら日々を過ごし、つい先日30周年ツアーベイシア文化ホール公演の日を迎えた。
あああ。私が生まれ育った群馬県、元恋人が育った群馬県、新婚生活を送った前橋!
(つづく)
(かもしれない)
当時、恋人からプレゼントに貰ったiPod。
エレカシは好き勝手に曲を詰め合わせたプレイリストがひとつ入っていた
一曲目が「冬の朝」で一番多く聞いていたのが「桜の花、舞い上がる道を」、最終再生日は2011年の4月らしい
駆け抜けたヒーロー
ヒーローはなぜ人間なのか。
いや、ヒーローはなぜ人間であると魅力を増すのか。
困っているところを助けてくれるなら、宇宙人でも妖精でもなんでもかまわないだろう。猫の手でも借りたい、と言うし。
しかしそれじゃあロマンがない。感動が少ない。
とは言っても、ヒーローものに詳しくない私でも人間が変身するのでないヒーローがたくさんいることを知っている。
たとえば日本人ならば誰でも知ってるウルトラマン。その正体はM78星雲光の国出身の宇宙人である。
そして元祖ヒーローといえばスーパーマン。スーパーマンの出身は高度な文明を誇るクリプトン星だ。
あれ、世界的ヒーローも国民的ヒーローも、人間じゃないじゃない。
しかしだ。この二つのヒーローの姿、思い浮かべてみてください。
どうですか?
・・・・・
え?ウルトラマンは人間離れしてるじゃんって。
見たことある方ならご存じの通り、変身前、普段は科学特捜隊のハヤタ隊員、人間の姿をしているのです。
・・・・脱線してきた上に、そろそろ私のヒーローに関する知識が綻びを見せたので、本題に行こう。
大丈夫。ちゃんとエレファントカシマシの話です。
長々と前置きをしたもののつまりは、宮本浩次がなぜこんなに心を掴んで離さないヒーローなのかって、そんなことを誰かに話したかった。それだけなんです。
私はたぶん勝手に彼に共通点を見出している。
共通点。ヒーローが人間であるように。
たとえば「日本人」で「同じ時代を今、生きている」。
そして歌詞に綴られる「悲しみ」「喜び」。
その共通項を持つほかのバンドと一線を画すところ。それが私にとってのヒーロー足りえるもの。
それは、説得力。
歌唱力、作曲力、作詞力、ライブパフォーマンス!
圧倒的な表現力が宮本浩次の声をもって「ぶざまな面で言い訳なんかしたくないのさ、やってやろうぜ」などと歌うと、もう敵わないのである。
ああ、ヒーローなのだな。と思ってしまう。
ウルトラマンがスペシウム光線で、スパイダーマンが蜘蛛の力で、ヒーロー各々の必殺技で敵を倒していく。
エレファントカシマシの演奏で、宮本浩次が歌う!
「戦う男」「ファイティングマン」
「陽だまりも宇宙も 悲しみも喜びも 全部この胸に抱きしめて駆け抜けたヒーロー」
それが宮本浩次なのさ、嘘じゃないさ。
長々とくだらない話をしましたが、なんと!このヒーロー肉眼で見に行けます。
必殺技を体感しに行けます。
私は目前にベイシア文化ホールでのライブ参加を控えていますが、きっと、いや絶対にさいたまスーパーアリーナでのツアーファイナルはすごいことになるぞー!
とにもかくにも自分にとってのヒーローが存在することって、日々の助けになるのです。
あ~あもう死んじゃいたいな、なんて思っても「無駄死にさ、やめたほうがいい」って、思い直させてくれるものです。
こんな幼稚な戯言を読んでくださった方がいましたら、ありがとうございました。ごめんなさい。
30周年ツアー、青森公演①「生命讃歌」編
生命讃歌がとてつもなかった!!
ライブで聞く生命讃歌は格段に威力を増す。
日の光が射す表の世界でもなく、真っ暗な一人の部屋でもなく、ライブ会場が良い。
照明によって照らし出されるバンドのシルエット。生命力に溢れる演奏とヴォーカル。音でビリビリ震える自分の体。観客達の息づかいや存在感。
そういったものが集まることで、別世界に連れ去られる。
確かにそこは日本の青森の弘前なんだが、足を設置点としてぐるっと裏表ひっくり返ったような、そういう別世界に引き込まれる。もの凄い。
抽象的かつ主観的すぎて言っている意味がわからないかもしれませんが.....(笑)
とにかく一番に書きたかったことでした。
青森公演の感想、続きます。
「人生の午後に」を聴いて
煙草を口に咥えて呆気にとられたまま泣いてしまった。
真夜中にエレファントカシマシのアルバム「町を見下ろす丘」を小さい音でかけていた。
ブログやSNSなどを眺めながら流し聞きというやつだ。
もうどんな記事を読んでいたのかも思い出せない。
気づいたら曲に気を取られ、ぼうっとしていた。
陰鬱な曇り空のような、じめっとしたイントロ。
なんだっけこれ、この感じ、聞いた事があるぞ。夏の日の怪談みたいだな。等と思いながらスマホを見るのを止めて音楽を聴いた。
「うれしいこと悲しいこと色々あるけれど
つまらないよ全部全部 色あせて見えるから」
ぎくっとした。
「思ひ描いた日々と今の自分を重ねて
窓の外を眺めていた 重く垂れ込むる雲」
物憂い歌声だった。辛かった。し、嬉しかった。
「カーテンが揺れてる 風で(ご覧よ)
さっきいれたお茶がもう冷めてしまった(入れ直さなきゃ)」
世にも切ない「(入れ直さなきゃ)」だった。
一人の部屋で誰に言うでもなく口をついて出た「(入れ直さなきゃ)」に聞こえた。自分の他に誰も聞いていない声。コミュニケーションの道具で無い声。
頭の中にいつか住んでいた部屋の情景が広がる。
脳内の景色はタイムトリップしているのに、置かれた自分の気持ちは”今”だった。
まさに「思ひ描いた日々と今の自分を重ねて」いた。
音楽を聴いていると自分の今の気持ちを言い表されたようにピタっとくる時がある。
そういう瞬間はとても嬉しい。だけど、感情が揺さぶられてとても苦しい。
私にとってそういう曲だった。
繰り返し何度も何度も聞いた。
楽器の奏でるメロディもヴォーカルも暗鬱としている。
特に私が何度も聞きたいと思うのは「つまらないよ全部全部」の最後の「ぶ」の音色や、語尾の音の伸び。
歌詞に歌声がこれ以上ないくらいきっちりハマっている。
宮本さんの歌声には幾度もはっとさせられる。
もの凄い表現力だと思う。
とてもBGMには出来ない。